飯沼さんと
那須野ヶ原生きものネットワーク 2020年8月24日(月)

農薬を使わずに美味しい野菜を育てている那須野ヶ原生きものネットワークの飯沼さんが野菜を届けてくれました。
店舗やレストランに納品している他、那須町にある菌ちゃん直売所でも無人販売をしています。
菌ちゃんとは、微生物のこと。微生物の働きによって土を豊かにし、農薬を使わずに元気な野菜を育てています。年々規模も大きくなり、野菜の種類も増えています。
今後農園を使って、子どもたちのための学びの場を作る構想なども伺いました。野菜を作りたい人に場所とスキルを提供していくことも考えているそうです。今の時代に何が大切かを考えて行動されている姿に共感しています。

飯沼さんは仲間たちとオーガニックマルシェ「大日向マルシェ」を開催しています。那須の素敵なレストラン「アワーズダイニング」のお庭で、第二第四土曜日に開催されています。

飯沼さんとは野菜やマルシェの話だけでなく、今の世の中の状況なども話しました。
やはり、個人間での生活様式の違いを実感しているとのこと。
コミュニティの中でも意見の相違が生じているのは、どこの世界も同じようです。

この社会の分断を考えるときに、食とその食を根底から支える農業に大きな役割があると思っています。 土に触れて微生物との共存をはかる、土と水と太陽のエネルギーをいただく、体に触れるものをいいエネルギーで満たせば、必要ないものは自然と淘汰されていきます。

そもそも人は生物すべてとのコミュニケーションの取り方を再考していく必要があるのかもしれません。まずは大地との関係にフォーカスして、人間が一方的に流す情報から離れてみようと思います。自分なりに実践中なのは、早朝の草むしりです。瞑想的であり、創造力もわいてきます。毎朝のラジオ体操前とあとの日課になりました。
月のカレンダー、瞑想的創造力を持って、ただいま校正中です。

ピザ作りました

いただいたお野菜でピザを作りました。たくさんの種類をいただけるのはありがたいことです。


関連サイト : 那須野ヶ原生きものネットワーク ・ 大日向マルシェ
オンラインイベント 月のこよみのはなし秋編

かぼちゃ
新月 はからめランド 2020年8月19日(水)

満月から新月までの旅を終え、半月ぶりに福島の山の中に戻ってきました。
畑は草ぼうぼう、かぼちゃが伸びて玄関までせまってきていました。
いつの間にか実をつけています。
自然にできてくれるのはありがたいことです。

旅を振り返りつつ、月のカレンダーのデザインをまとめています。
旅に出る前と後ではずいぶんと変化がありました。この変化のエネルギーを、2021年の暦の制作に生かします。

こよみのお話会オンライン

今度はオンラインで「月のこよみのはなし」やります。

オンライントーク:月のこよみのはなし 秋編 〜月と共に暮らす〜
日時:9月6日(日)10:30〜12:00
主催:chaabee
参加費:2000円

今回は中秋の名月も近いこともあり、「月」にスポットライトを当ててお話しさせて頂きます。知っているようで知らない「月」のこと。地球にとってどれだけ重要な存在なのかといったことなど、わかりやすくお話しできればと思っています。
このお話会から、イベント後にアーカイブで3日間観られるようになりました。(参加費をお支払いただいた方に限ります。)
詳しくはこちらのイベントページをご覧ください。


関連サイト : オンラインイベント 月のこよみのはなし秋編

こよみのお話会。
こよみのお話会 あるでばらん@笠岡 2020年8月16日(日)

笠岡市にある薬効手染めのシルク製品の製造販売を行なっているあるでばらんのHanareで、こよみのお話会を開催していただきました。
今回の広島への水の祈り旅を伝えたときに、あるでばらんの社長ご夫妻から
「笠岡でこよみのお話会をしてほしい。」とお話をいただきました。
旅のはじまりから終わりまで、表でも裏でも今回の旅を支えてくれた社長の中村俊一さんはOPEN JAPANの名付け親でもあります。
はじまりの時間には今回熊本で体験してきた現地の状況などをスライドに加えて伝えさせていただきました。

今回のこよみのお話会は第一部とティータイムをはさんだ第二部からなる3時間構成です。
すでに予約で満員となり、当日のキャンセル待ちの方も含め、あるでばらんさんとのご縁のある方々に集まっていただき、予定より多くの方にご参加していただきました。このご時世にも関わらず、ありがたいことです。

第一部「こよみの読み方」では暦の成り立ちや五行思想とその特性を、わたしたちの生活の中での使い方などを交えて話しました。
第二部は「こよみの謎を解く。」と題して、わたしたちの考える「暦とは何か。」ということを伝えます。そこに集まる人と場のエネルギーが輪になって、みんなでその空間を味わうので毎回興味深い時間となります。

ティータイムには、熊本の奇才パティシエikushiroのヴィーガンケーキと、俊一さんが丁寧に淹れてくれたハンドドリップコーヒーのおもてなしを受けました。
ikushiroさんは東京の三軒茶屋にあったオーガニックカフェohanaで出会い、熊本に移住されてからも多方面で活躍の様子を聞いては嬉しく思っていました。パティシエikushiroのケーキの味と美しさは芸術作品と言えます。すぐに売り切れてしまうようですが、全国のファンのためにオーダーを受けて発送もしてくれます。
ikushiroさんからの熊本での水害支援の呼びかけを受けて、あるでばらんからも熊本に物資を送った経緯もあり、「お話会に集まるみなさんにもぜひこの味を」とikushiroヴィーガンケーキを予約注文してくれました。

今回泊まりがけで広島から参加してくれた中川圭子さんは、水の祈りの発起人のひとりでもあります。毎年8月6日には広島の旧日銀で「平和と美術と音楽と」を通じて、広島から世界へ向けてメッセージを発信しています。今年は24時間ブロードキャストで広島と世界をつなげるというチャレンジを行っていました。

お話会のあとの夜は更けるに連れて話も深まっていきます。
「途中からね、わたしがやっているんじゃなくて、まるで誰かに操られているって感じでできちゃったのよ。」と圭子さん。
やるべき時にやるべき人が集まれば、エネルギーは増大してしていくという法則のようです。
今年のはじめにホピの村へ行った際の貴重なお話なども伺うことができました。

月舟苫家

お話会にご参加してくださった方から、素敵な詩集をいただきました。
『種蒔く人』
作者の岸田真理子さんは瀬戸内海に「月舟苫家(つきふねとまや)」という名前の食とアートの場を作っています。食の世界は小林さん、アートの世界は岸田さん、お二人で営んでいます。
私たちも好きなアサクラのオリーブオイルも扱っていて、予約をすれば食事もできるみたいです。
月舟と月とカヌー。なんだか近しい感じがして、訪れてみたいところができました。

今回のこよみのはなし会には神戸元気村の頃から続くOPEN JAPANの仲間たちも聞きに来てくれました。広島からはじまった水の祈りの旅は、球磨川の水害支援へと流れ、こころの火を灯し続ける仲間との再会の旅でもありました。
新月には福島に戻り、こよみの制作に入ります。


関連サイト : あるでばらん ・ ikushiro ・ 平和と美術と音楽と
月舟苫屋 ・ OPEN JAPAN災害支援

遮光カーテンをつける。
Bar English Society @福岡 2020年8月14~15日

福岡に住む弟家族を訪ねた。弟はバーなのか塾なのか、とにかく英語を勉強しながらお酒も飲める場所を経営している。ちょうど母も数日間弟の家に泊まっていたので久々に顔を合わせた。

路上で大工

夜はそのバーでゆっくりとお酒を頂き、翌日は流れでそのバーの棚などを作ることに。車の中に大工道具一式あると色々と人の役に立つものだ。
朝から近所のホームセンターに買い物。なんとかお昼までに仕上げるつもりで作業開始。

完成した棚

棚やカーテンをつける下地木材など、全てコンクリートの壁に打ち付ける作業。ちょいと時間がかかったが、みんなに手伝ってもらいながら完成。

みんなで

福島と福岡、兄はハッピーアイランド、弟はハッピーヒル。ウィアハッピファミリ。


関連サイト : Bar English Society

ひょうたん市場とケンゴマン
ひょうたん市場 @宮崎 2020年8月13〜14日

宮崎にいるケンゴマンに会いに行きました。
you tubeで、ケンゴマンたちが宮崎で「ひょうたん市場」を作っていることを知り、広島の水の祈りから続くこの流れのタイミングで会いに行こうと思い、久しぶりに連絡しました。

ひょうたん市場全貌

ケンゴマンと会ったのは2002年8月1〜7日に静岡県袋井市のデンマーク牧場で開催された平和の集いです。浜岡原発に対しての平和行進に行っている間、
「この火を見守っていて。」とランタンに灯る平和の火を預かりました。
ここで初めて、1945年8月6日から燃え続けているその火の存在と、その火をキープし続けている人たちのことを知りました。

そのひと月後の2002年9月11日、東京の明治公園でBe-inという平和集会を開催したときに、ケンゴマンのキープしていた平和の火を灯しました。
2004年には福岡県星野村がキープし続けている平和の火を灯し、2007年アースデイ北海道の平和の火リレーでは琵琶湖から関東まで火を運びました。
2011年3月11日、東日本大震災が起きます。多くの人々が放射能から逃れて避難しました。ケンゴマンたちは阿蘇へ、わたしたちは石巻へ、その後福島に住むことを決めました。平和集会に行く機会はほぼなくなり、災害支援へ行く機会が増えました。あれから10年が経ちました。

もうちょっとで完成?ひょうたん市場の屋根

会った瞬間から話が止まりません。ケンゴマンは多分忙しかったはず、たくさん注文がきているロケットストーブ作りのため手は動かしていましたが、twitterをする隙間なしで話が続きます。(ケンゴマンはtwitterで生きてる、と言っていて、あとでその意味が分かりました。いつもはtwitterでいろいろ発信しているのです。)
話していることがすごくよくわかります、言葉が通じるってこういうことか、と思うくらい言っていることがよくわかるのです。ゼロから始める同志、同じ道を経験してきたからなのかもしれません。

ひょうたん市場 @youtube
ケンゴマンオリジナル ロケットストーブ @youtube
<両動画ともカメラを回しているのはラク(カメラの後ろの声も)>

今年亡くなった母が生前、一度だけケンゴマンに会ったことがありました。日比谷野外音楽堂で開催されていた平和集会でのひとときだったと思います。ケンゴマンを紹介した帰り道、「あの人は哲学者ね。」と言っていたことが印象的でした。哲学者と呼ばれていたことをケンゴマンは忘れていましたが、ケンゴマンはどんなに有名な哲学の本よりもわかりやすい言葉でこの世界を説明してくれます。哲学とは人にわかるように伝える能力のこと、と哲学の本に書いてありました。まさにその通りだと思います。

竹を竹釘で留める

ケンゴマンとノブちゃん、ケンゴマンの息子ラクの3人は「ひょうたん市場」という新しい経済で動くコミュニティを作りはじめていました。馬場の上の竹屋根は巨大な芸術作品のようで、竹でできる限界を取っ払ってしまったかのような実験アートとも言えそうですが、ここに市場を作る構想があるのです。

ドット思考でいこうと思って。

「どうしたら作れるか、どうしたらいいかなんてことを考えていても時間ばかりが過ぎていく。それよりも、思った瞬間に「これやってみよう。」と始めるんだ。ドット思考でやろうと思って、やってみたらいいんだよ、この竹屋根もドット思考。準備できてからはじめるんじゃなくて、やろうと思ったその瞬間にまずやってみるんだ。」

夜はこの竹屋根の上でみんなで流星群を見ました。すごく長い時間、ずーっと星空の下で語り合い、たくさんの流れ星がわたしたちの話を聞いていました。

馬を飼っている

自然農って、農業っていうよりは生き方みたいなもの。ちょっと多くできるように、人間は手を貸してあげるだけ。

ラクはピュアリーという無農薬無肥料栽培の野菜を扱う会社を最近やめて、ひょうたん市場を作りながら自然農でかぼちゃを育てていました。自然に生えてきたかぼちゃに朝10時までの花の開いている間に受粉を施すそうで、あとは自然にまかせるだけです。農作業というよりは自然界の営みの中に人間の動作があるという感じでしょうか、自然界とのコミュニケーションがそのままかぼちゃという形になって現れていました。

みんなで

ケンゴマンの作る機能性も優れていてすごくかっこいいロケットストーブ、わたしも欲しくなりました。半年先まで予約でいっぱい、すごいことです。
出会った時から常にものを作り続けているケンゴマン、ひょうたん市場を作るためにもいろいろなアイディアが生み出されて、それを形にしていました。生き方がアーティストでなければ生み出されない作品たちを、地球とともに創造し続けています。ノブちゃんとの生き方、本当に尊敬しています。変わらず創造し続けていることが何より嬉しかった。
わたしたちも新しい経済で、「ひょうたん市場」とつながりたいと思います。

わたしたちは福島県に「はからめランド」という名の「月とカヌーの工房」を建てています。
取り掛かり中の五右衛門風呂ができたら最初のW&Cカヌーを作るための準備にとりかかろうと思っています。
旅から戻った今は暦作業に没頭し、中秋の名月発売に向けてデザイン真っ只中です。
月のカレンダーも2002年から作り初めて、今回で20年目となります。

いろいろなこと、「ドット思考」で進めるのもいいかな、と思っています。


「人の住む森のことを里の森って言うんだよ。」ノブちゃんの物語、忘れません。
「明日やろうはばかやろう」の話も。
これは肝に銘じるくらい、刻みつけられました。

この世界に、薪で火を焚き自然界のエネルギーで暮らしている仲間がいると知ってとても嬉しかったです。 たくさんの叡智と導きをありがとう。


関連サイト : ツイッター @yoshidakengoman

朝のミーティング
球磨村 令和二年七月豪雨災害支援 2020年8月9〜13日

今回の災害支援活動はこれまでにない課題を抱えての活動となりました。
ウイルスという目に見えない存在に備える社会的対策が影響し、ボランティア活動はかなりの制限を設けられています。さらに個人間によるコロナ感も異なるため、まるで3.11東日本大震災の原子力発電所が爆発したあとの放射能による分裂を体験しているかのようでした。

OPEN JAPAN災害支援チームは経験を積み技術を持った災害ボランティアの集まりです。熊本県と連携して活動を開始し、ボランティアの行動履歴の把握、健康状態のチェックなど、厳しい手はずを踏んでの活動を行なっています。
行動範囲も制限し、外出は必要なときのみとすることになっていました。食材購入や資材購入のための外出はすべて最も近いところですませるように、近隣にたくさんある温泉も基本的には近場のみ、できるだけベースに設置してある簡易シャワーを使うことを心がけていました。ボランティアのベースキャンプは水害にあった公共の施設とその敷地をお借りして、テント泊もしくは車中泊です。電源は電源車から、水は給水車で補給していました。簡易トイレとシャワーも一つづつ設置しています。

今回受け持ったお宅
<今回作業に当たらせて頂いたお宅>

朝7時15分に渡地区OPEN JAPANキャンプベース内のミーティング。その後、車で約30分のところにある神瀬地区で8時から全体ミーティング、そして各自活動開始となります。活動時間は4時頃まで、との流れでした。
神瀬のミーティングではこれまでの被災地でボランティア活動をしていた面々との懐かしい再会もありました。この社会情勢の中、それぞれの立場と見解で参加していることが伺われ、ひとりの人間としての行動がこんなにも厳しくテェックされているのかと、心休まらない感じを受けました。

初日はOPEN JAPANの大工チームが入っている神瀬地区のお宅の片付け作業に加えてもらい、二日目からは匠くんが一軒のお宅を担当することになりました。渡地区の少し高台にある二階建一軒家、二階の天井の5センチ下まで水がきた跡があります。
こちらのお宅にボランティアが入るのは初めてでした。発災後ボランティアも来ない状況の中、自分たちでやるしかないと、ご家族ご親戚で家財出しと泥出しをしたそうです。見えるものをすべて片付けていたので、そうとう頑張ったことが伺えました。見えない壁の中や床下を見てみると、当時の水が溜まっていました。 水害に遭ってから二ヶ月近くが経過しています。
今回匠は技術系ボランティア(大工)として役にたちます。家の構造や材質を理解しているので、再建する予定の家の解体、というミッションを行います。

作業に入る前
<作業に入る前の部屋>

家主さんは60代の女性、ひとり暮らしです。当時は勤務先にいて家に帰れない状況だったそうです。天井以外全てが水に浸かり、家財道具はすべて処分しなければなりませんでした。避難所には行かず、現在親戚のお家にお世話になっています。お子さんは県外に在住しているためこの影響下で来ることができず、ご自身ひとりで仕事が休みの日に片付けに通っていたそうです。本当に疲労困憊してしまっていて、
「県外から見ず知らずの人がこうして助けにきてくれるなんて思いもしなかったです。ずっとひとりで片付けていて、まわりも被災しているし、もう自分ですべてやるしかないと思っていました。わたしはこの場所で生まれ、この場所で育ち、この村が好きなんです。五軒あったこの並びも四軒はだめで、ここ一軒だけが残っています。ここだけになっても、できればこの家にもう一度住みたいんです。もう歳だし、ひとりきりですから全てを新しくしなくても…。」と涙ながらにおっしゃっていました。
家の構造材はしっかりしていたので、リフォームすれば住むことができると大工さんも再建を引き受けてくれたのだそうです。

作業後
<初日、作業後の部屋>

9日、作業はOPEN JAPANで活動しているかけるくんと3人でスタートしました。かけるくんは昨年台風被害の大きかった丸森町での災害支援のチームで前回顔を合わせていたので、すぐに打ち解けました。前職で内装の経験があり、師匠から丁寧さを教え込まれたと言っていただけあって、作業は迅速かつ丁寧です。
石膏ボードの壁を剥がし、中に入っている水を吸った断熱材を取り出して壁の中の構造材だけにします。天井も剥がし、二階二間、階段、一階キッチン、和室、広間、玄関、トイレ、浴室…。すべての部屋の壁を剥がすだけでもかなり時間のかかる作業となることが目に見えています。現時点ではボランティアの数が少ないので自分たちでやるしかありません。バールで壁を壊し、土嚢袋に石膏ボードを砕いて入れて、外に積み上げていきます。あっという間に山になりました。
毎日暑い中での作業です。熱中症になりかかかるほど、作業は危険をはらみます。休憩を入れていくためにはタイムキーパーをしていく必要があると理解します。
肉体労働に不慣れな私はときどきはしゃがんで休みながらできる作業と並行しました。崩れた石膏ボードの細かくなった真っ白いかけらを拾い集めているときになんだか頭がぼーっとしてきて、まるでお骨を拾っているようだなと錯覚していた瞬間にサイレンが鳴りました。今日は長崎原爆の日です。一瞬にして灰になってしまった人もいたのでしょうか、あの日も今日のように快晴で暑かったのでしょうか。
75年という年月を経て、戦争と災害について、熊本県球磨村で静かに考える時間を過ごしました。

高いところの作業
<水に浸かった壁は、綺麗に見えても中の断熱材がビショビショ、石膏ボードの裏はカビだらけ>

10日、OPEN JAPAN災害支援の長期メンバーは本日の活動はお休み。支援が始まって以来休みなく動き続けている中で、仲間うちで急遽そう決まったようです。みんなそれぞれのペースで体を休めていました。
そんな訳で、匠と私二人で作業現場に入りました。家主さん、大工さんとのことを考えて今後の工程を考えながら作業を進めます。
現場を見に来た事務局のパウロくんが「明日社協からボランティアまわしてもらいましょう。」と調整をしてくれました。技術的な知識がある人が一人いれば、道具と使い方を教えれば一般ボランティアの方たちにもできる作業がたくさんあります。
作業3日目となる8月11日には県内ボランティア7名を派遣してもらいました。人数が多ければその分はかどることがたくさんあります。
ボランティアセンターから派遣してもらう一般ボランティアさんの活動時間は午後2時30分までとなっていました。
「悔しいなぁ、まだまだ全然終わらないですね、不完全燃焼です。もっと人が必要ですね。まだまだ終わる感じではないと会社のみんなに伝えます!また来ます!」とみなさん真剣な眼差しで、職場の方々へとつないでくれることを約束して帰って行かれました。

人数のありがたさ

12日、作業4日目は9人の県内一般ボランティアが派遣されました。
「インパクト使える人いますか。」
「道具も持っています。」
一般ボランティアの中にも技術のある方がいます。昨日と同じ通信関係の会社からボランティア派遣で来てくれていたので、前日の引き継ぎ効果で道具の準備と技術のある方々が来てくれたので作業がはかどりました。こういうチームワークがとれる体勢を整えてくれているのもボランティアセンターでの細かい配慮があるからこそ。人が心で動けるように、みんな現場で経験値を積み上げていることを感じました。

見に来た家主さんの顔には日に日に笑顔が増えいていくのが感じられます。
「こんなにたくさんの人が来てくれてありがたいです。ずっとひとりでやらなければならないのかと思っていて、大工さんも今忙しいし、もう困っていたので本当に助かります。」
孤独な作業の毎日が、人の手によって少しづつ報われていくように感じたのではないでしょうか。 「ボランティアのみなさんへ」と冷たい飲み物を買って来てくれました。
みなさん体は疲れていても、心にはエネルギーが沸いてきていました。目の前に困っている人がいて自分ができることが今目の前にある、そういう状況において人は一生懸命になれるものです。

人数のありがたさ

13日からはお盆休みで社協もボランティア活動もお休みになります。
私たちも明日出発するため、作業も引き継ぎを考えて、一旦終了となります。今日が私たちにとっては最後の現場となりました。
一般ボランティアさんを送り出し、その後この家のリフォームをされる大工さんに来ていただいて、今後の作業工程の話をしました。

「この村にはもともとそんなにたくさん大工も工務店もなくてね、わたしの抱えている仕事はここの家で8件目です。施工は来年になると思います。壁と天井と、床も剥がしてもらえたらありがたいです。ここの枠もこの押入れも、全部外してください。」
「あちら側はね、二軒の屋根が見えただけで、あとの家は全部水の中に浸かってしまってね。再建は難しいでしょうね。戻ってこられる家がいなくなればこの村の人口も減るでしょう。仕方のないことでしょうが寂しいですね。この後村もどうなることか。」
「ちょっと前はもう少しボランティアの人たちも見かけたんですけど、今はほとんど見ませんね。人も少なくなりました。もう今自分たちだけではできないから、こうして他県からはるばる来てやってくださって本当にありがたいです。」涙を浮かべて村の現状を伝えてくれました。

泥だらけの雨戸を洗う風景

その後家主さんにご挨拶をして、今後の引き継ぎの話をします。
家主さんの口からぽつりぽつりと状況が語られました。心につかえていたいたものがちょっとずつ溶けていくかのように、この村での生活を話してくれました。
この村で生まれてこの村で育ったこと、結婚して離婚して村に帰ってきてこの家で子どもたちと母親と暮らしていたこと、子どもたちは大きくなって他県に暮らしていること、10年前に火事になって家を建て直したこと、7年前にお母様が亡くなるまでこの家で一緒に暮らしていたこと。
それから仕事をしながらひとりで暮らしていたこと。
様々な思い出が集まった場所だということが伝わってきます。

「仮設住宅は2年までしかいられないそうです。その間にこの家が住めるように大工さんに直してもらえたら、またここに住みたい。リフォームは来年になるみたいですけれど、ここまでボランティアの方にやっていただいたら施工も早いでしょうから早くできるかもしれない。いつか熊本に来ることがあったら、ぜひこの家を訪ねてきてください。」

2階から1階の天井を外す

私たちが出発する前、
「床剥がしと床下の泥出しまで、自分が責任を持って見ます。」
一緒に作業をしていたかけるくんが、このお宅を引き継いでくれると言ってくれました。普段言葉の少ないかけるくんが、大工さんと家主さんとの話合いを経て、自分からそう言ってくれたことはとても大きなことでした。人から言われてやることももちろんですが、自分から志願してやることから得るものは大きいです。ボランティアとはそういうことだと思います。人はこうして経験を積んで大きくなっていくんだなぁと思いました。すべてゼロからスタートする被災地での支援、この活動から体験することを伝えていくことは、これから生き抜く人たちにとって必要なことかもしれません。

見えない恐怖で人との分断が行われている世界で、人とのつながりが人を助けるという世界を作り続けていくことの大切さを感じます。こうしてひとつのお宅に集中して作業させてもらえたことで仲間と一緒にそれを感じることができたことはとても貴重な体験でした。

よし子、インパクトドライバーを使っての作業

今回の支援活動は肉体的にも精神的にもとてもハードなものでしたが、その分鍛えられました。
コロナ感による行動制限や精神的肉体的分断は、まるで学校のいじめを体験しているかのように感じることもありました。小さなコミュニティ内での小さなことかもしれませんが、これが全国規模で広がっていると思うと大変なことだと思います。

「同じ釜の飯を食う」ということ

今回はこの分断を埋めるべく、ボランティアがキャンプしているベースでは毎日みんなのために食事を作りました。カップラーメンとコンビニ生活という食生活は被災地支援では当たり前のようにあることです。初動時には仕方のないことですが、長期にわたる支援活動となる場合、食生活は心と体と仲間とのコミュニケーションに大きく影響します。食生活がみんなをバラバラにしていることは一目瞭然。作業から戻ってすぐに夕食を作り、朝はみんなが起きて来る前に朝食と昼食用におにぎりを準備しました。結果、日に日にみんなが集まって会話する時間が生まれ、笑顔がたくさん見られるようになった気がします。厳しい状況下ではありましたが、こんなときだからこそコミュニケーションと食事、トイレ清掃などの生活改善が必要だという私たちからの意見も伝えさせてもらいました。
被災した直後の、人が住める状態ではない状況に入って行き、支援活動を続けていきながらそこにベースキャンプをはることの大変さを身を以て感じました。経験を積む毎に改善されていく問題を目の当たりにし、被災地支援を続けていくことの重要さも感じています。

みんなでのミーティングはとても大事

眠れない夜が続きましたが、みんなとコミュニケーションを取れるようになったその日から、明らかに個々の行動が変わって来たような気がします。戻って来た人から夕食の準備をしようとする姿や、トイレがいつも綺麗になりました。当番制ではなく、自主的に。そこには笑顔と思いやりが見られました。
わかっていても日々の疲れにおざなりになりがちな集団生活ですが、やがてその生活の延長線上に災害支援も社会変革も置かれているのだと気づくときがきます。世界の縮図が自分のまわりに現れていることに気がつくことができれば、今日という日をどう過ごすかということが世界に影響を与えていることに気がつきます。
ひとりひとりの行動がこの世界を作っている、霞ヶ関やホワイトハウスだけでなく、被災地から行動することがこの世界にとって重要なのだと思うのです。みんなの価値観は異なっても、違いを認めながら協力し合い住みよい国にしていきたい、被災地で感じたことはこれからの日本に必要なことだと思います。


関連サイト : OPEN JAPAN 災害支援

もうちょっとで繋がる阿蘇大橋
球磨村 令和二年七月豪雨災害支援 2020年8月8〜9日

ハチロクの夜、広島を後にしてさらに西へ向かい途中の高速パーキングで眠った。
7日朝は2人でラジオ体操、そして関門海峡をわたり数年ぶりの九州。阿蘇に寄り、毎年カレンダーを手にしてくれているお菓子屋さんの仲間を訪ね、被災地で役に立つであろうマスクや高級お菓子などを預かった。
プリンセスフラワーズ
そして同じく阿蘇に住む、熊本地震の時にたまたまホームセンターで声をかけてくださったのがきっかけで支援に入いらせて頂いたお宅を訪ねた。地震で被災した光景を覚えている僕たちは、あれから数年経った現在の様子を拝見させていただき、家の修復、そして庭の手入れなどなど、夫婦2人でここまでのことができるのかと、僕は口が開きっぱなしだった。とにかくすごい。綺麗。今この状況を僕に見させてくれるために、あの時ホームセンターにいた僕達に声をかけてくれに違いないと感じてしまった。時間は考え方によって前にも後ろにも流れるものだ。

大工のやっちゃんと

OPEN JAPANの災害支援チームが活動している球磨村の神瀬地区で仲間と合流、状況を把握するために車を停めてまずは歩いた。
氾濫した水は2階の屋根まで覆うほどの高さまで増えた様子。発災から約1ヶ月、同じ家で暮らすと決めている家と、もうこの家には住まないと決めている家、がはっきりと分かれている。

ベースはカビだらけだが・・・

まだ作業できる時間だったので、少しでもと思い道具を出して仲間が手がけている現場に合流。作り付けの棚の取り外し・・・立派な作りの家は木材がガッチリと使われているので外すのに手間がかかる。建築した大工さんは、外しやすい様に作るのではなく、外れにくい様に作るのだから・・・。
いつも思うことだが、着いてすぐに作業に入れるということは、すでに仲間が地域の方や家主さんとの関係を築いてくれているかであり、僕はそのことにただただ感謝するばかりである。

今日から5日間の予定で活動予定。


関連サイト : 菓心なかむら ・ OPEN JAPAN 災害支援

E=MC2
広島、20個の灯籠流し 2020年8月6日(木)

E=MC2。今回は写真多めで進めることとする。

原爆ドーム

原爆ドームの写真を見るときは原爆ドームだけが写っているから、広島に行ったことがない人はその周りがどうなっているのかあまり知らないと思う。こんな感じ。

広島県産業奨励館

広島県産業奨励館とはこれのこと。

広島県産業奨励館

拡大。

看板

平和記念公園のメインゲートはこんな感じ。

アート作品

平和祈念式典はこんな感じ。椅子を使ったインスタレーション。

身元不明者のお墓

平和記念公園内にはすごくたくさんの祈念碑などが。こちらは原爆で亡くなった身元不明で名前のわからない方々が納められている場所。

とうろう流し 中止となりました

八月六日 ピースメッセージ
 とうろう流し 新型コロナウィルス感染防止のため 中止となりました。 

当時の話を伝えてくれる下井さん


平和記念公園のある場所は、1945年8月6日の朝8時14分までは広島一の繁華街だった。映画館やカフェ、ビリヤード場があって、みんなが集まり賑わう場所。
真ん中で地図を指しているのは、毎年行われているとうろう流し実行委員の下井さん。下井さんのお父さまが住んでいたのはこの中島本町という繁華街。お父さまから聞いたという当時、当日のお話を僕たちにも伝えてくれた。

旧中島本町の慰霊式

旧中島本町(現在の平和記念公園)では、毎年8月6日の朝8時からは皆さんの知っている例の平和祈念式、そして9時からはそこから少し離れた場所で旧中島本町の慰霊式が行われている。こちらの慰霊式は法事といった感じ。お坊さんのお経の後にみんなでお焼香。喪服を着て参加されている方もちらほら。

アーサーさん

毎年広島で会うのはアーサービナードさんという詩人。彼が着ていたTシャツ「旅に出ます探さないでください」by芭蕉

ひろしま音〜楽まつり

同じ公園内でやはり毎年行われている「ひろしま音〜楽まつり」。緩やかな時間が流れる中、昨日「水の祈り」で水合わせをした水とさらに合わさる水があり、それを合わせる時間を頂いた。
今年の「ひろしま音〜楽まつり」は、オンラインで配信。なので、オンラインで配信されながらの水合わせだった。

気持ちの良い水を広島から世界の積み隅々まで

「ひろしま音〜楽まつり」で合わせた水を太田川から世界に向かって流す。

灯篭をサポート

今年のとうろう流しは中止なのだが、とうろう流し実行委員の方々が20個だけ灯篭を流すことになり、その灯篭を一つ一つサポート。

20個の中の1個

僕たちにとって今年で6年目となる広島はとても静かだった。そのおかげでとても静かな時間を過ごすことができ、少し心にスペースができたということもあったのか今まで知らなかった広島が僕の中にグゥ〜っと入ってきた感じがした。

集まった方々
水の祈り 2020年8月5日(水)

全国各地から、そして今年も海外から、気持ちのいい綺麗な水を合わせて太田川に献水する祈りの時間を持ちました。今年は来られない方々が多く、水を広島まで送っていただくことになりました。遠くからはインドハリドワールの、ガンジス川の水も届きました。

水合わせと火

和ろうそくを灯し、火と水が隣り合わせとなる夕暮れ時、川に出てカヌーの上からこの太田川に水を捧げました。この水は広島から海へと繋がり地球を巡る一滴となります。
今年感じたこと、それは昔々の人々の祈りでした。太古から人は水に祈りを捧げていただのだろうと思います。何かあるときも、何もなくても、人は水辺で静かな祈りの時間を持ったのだろうと思います。悲しい時、嬉しい時、辛い時も心の赴くまま、人は水に祈りを捧げていたのだろうと思います。とてもとてもシンプルな、人の祈りとは水とともにあるのだと感じ取りました。
 


関連サイト : 水の祈り

モダナークカフェにて
月のしずく。 2020年8月4日(火)

琵琶湖を出発して広島までの道中、神戸のモダナークカフェで昼食をとりました。
初めて入ったカフェ、初めてお会いする店主のこつぶさん、まるで今日このタイミングでここに来ることになっていたかのような出会いでした。
祈りの旅は導かれていろいろなことが起こります。

店内の本棚には素敵な本があります。
アキノイサム画伯の本もありました。
そして、やはり2004年のWPPD(World Peace Prayers Day)に参加されていました。
わたしたちは同じ場所で祈りを捧げていたのです。

「水の祈りのお水合わせに、」とこつぶさんから今日届いたばかりだという「月のしずく」という神水をお預かりしました。



関連サイト : モダナーク・カフェ

琵琶湖の上で
ただいま琵琶湖。 2020年8月3〜4日

ただいま琵琶湖の「ただいま」は、琵琶湖ナウの「ただいま」ではなく、「おかえり〜」の反対語「ただいま〜」の「ただいま」である。「た」「だ」「い」「ま」の本当に意味ではどちらも変わりはないのだが。
というわけで久々の琵琶湖にやってきた。今回は湖北長浜にて10月に予定しているクラスの打ち合わせ。そのあと湖畔で一晩過ごし、早朝カヌーに乗って少し沖まで行って5日に広島で行なう「水の祈り」で合わせる水を取水。そしてぐるっと北側を周り、勝手に僕らが故郷だと思っている湖西高島を通り、京都へ抜けるルート。

和ろうそく屋さんの前で

高島市近江今津で、いつもお世話になっている和ろうそく屋さん「大與(だいよ)」によってご家族の皆さんに挨拶。これから広島に行くことを伝えると、「ろうそくを持って行ってください」と、十分な量を持たせてくれた。気持ちの良い「水」合わせるときに、この気持ちの良い「火」を使えればいいなと思う。


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